ギャンブルと投機と投資と

Principles of Corporate Finance は読み物としては面白いのだが、DCF(discounted cash flow)概念の耐え難い軽薄さに、途中で投げてしまった。

資産を評価するためには、DCF を使うという。そのためには、将来のキャッシュフローと割引率が必要だという。真っ当な割引率が求められるかさえ怪しいもんだが、仮にそれが求められたとしても、キャッシュフローなど大抵の場合、予測なんかできやしない。できたとしても予測するフリくらいのものだ。

市場で決定される価格にはすべての情報が織り込まれているという効率市場仮説というものがある。この仮説が正しいとしたら、市場の参加者は市場の平均収益率を出し抜くことはできない。実際、インデックス連動型のパッシブファンドのほうが、ファンドマネジャーが知恵を絞って投資決定するアクティブファンドより手数料を差し引くと成績がよかったという。

だが実際には効率市場仮説では説明しきれない異常(anomaly)がある。それを人間の不合理性を仮定して行動経済学で説明しよう・・・とか言ってるのだが、そんなことはとっくの昔から、ギャンブラーや投機家たちはよ〜く知っていた。それを学者たちはもっともらしい学問的な言葉で言い換えようとしているだけだ。

こんなまじめくさったファイナンスの本より、下のリンクのほうがよほど投資の勉強になるんじゃないか。

やる夫.jp:やる夫の麻雀放浪記

ギャンブルと投機は近くて、投資とは全然違うとか言っているひとがいるが、そういう人は投資をしてケツの毛までむしられること請け合いである。

投資は、ギャンブルや投機とは違ってゼロサムゲームではないという人がいる。たしかに理論上は正の収益率を期待できる。だがそれは必ず得られるものではない。

たとえば 10% の期待収益率があったとしよう。多くの場合、期待収益率の分散は大きく、実際には -5% か 25% のどちらか、なんていうことが往々にしてある。どちらになるかは、運次第なのだ。

期待収益率が10%もあったらいい。今日日、先進国では投資機会がどんどん失われてきていて、これはわずか2−3%(日本などせいぜい1%)くらいになってきてしまっている。それでいて資産価格自体は1年のうち平気で±20%くらいぶれたりする。こうなると、期待収益率というのは、わずかなバイアスにすぎなくなり、実際の損益はほとんど運だけで決まるようになる。

私は、ギャンブルと投機と投資の違いはわずかなものにすぎないと感じている。社会的に疎まれればそれがギャンブルと呼ばれ、価値があると信じられれば投資といわれる、その程度の違いでしかない。

では社会的に通りがいい「投資」という言葉で統一してみよう。どうしたら投資で利殖できるのか。

基本的にはこんな感じじゃないだろうか。
ギャンブルに勝つための3つの心がけ - FC2ノウハウ

当たり前だが、まずはルールを良く理解することである。ルールを裏も表も完全に理解するまで絶対に手出ししてはならない。ルールだけでなく、ゲームに参加している人たちの考えを理解するのも大切である。

私も昔麻雀をやっていてつくづく感じたものだが「運回し」というものがある。ツイているときはとことんツイているし、ツイていないときは全くツイてない。驚くほどはっきりしているのだ。この運気を見定めるが投資上、重要だろう。

負けがこんでくると焦りのあまりますます不合理な意思決定をする参加者たちがいる。カモと呼ばれる人たちである。参加者のうち誰がカモなのか見定めて、その反対の行動を取ることである。賭場には、勝者とカモと胴元の3種類の人間しかいないのだから、カモには絶対になってはいけない。

とはいえ、投資に絶対はないので、常に勝者になれるとは限らない。最も確実なのは胴元になることである。金融の世界では彼らは、証券会社とか投資銀行とか上品な言葉で表現されているが、彼らが要するに胴元である。そして、無知な客たちを甘い言葉で誘い込み、「はめ込んで」確実な利益を上げ続けている。露骨なはめ込み営業は今日日少ないのかもしれない(それでも日系証券会社ではやってるところまだあるらしい)が、複雑なルールで隠蔽されているだけで本質的には同じことである。(生命保険会社の外交員なども同じ)

投資は、カネと欲の世界である。ギャンブルが政府によって原則禁止されているのは、中毒性が高いからだ。非常に危険なものではあるのだが、ギャンブルと同じ、ハイリスクハイリターンを求める性向が、企業家精神として発揮され、経済成長に貢献することもある。不確実性へ自らを賭ける人間の姿は、時に卑賤で醜く、時に高貴で美しい。